日本酒造りの最高責任者である『杜氏』には、様々なグループがあることをご存知でしょうか?
当時は地域ごとにグループ分けされており、グループごとに伝わっている技法などに違いがあります。
今たくさんあるグループの中で『三大杜氏』と呼ばれるのが『南部杜氏』『越後杜氏』『丹波杜氏』です。
今回は、それぞれの歴史や違い、ポイントを紹介します。
三大杜氏とは?
今では酒造メーカーなどに勤務して、一年を通じて酒造りを行う杜氏がほとんどですが、かつて杜氏は季節労働者でした。
農閑期にグループで酒蔵にやってきて、冬の間だけ酒造りに従事していたのです。
そのグループを『杜氏集団』と言います。
杜氏のグループは、日本全国各地にあります。
特徴ある伝統技法を受け継いでいるグループもあり、それぞれのグループにより日本酒の味わいに違いが生まれるのが面白いポイントです。
現在全国には約30もの流派があるとされています。
その中でも特に人数が多い流派が『三大杜氏』です。
三大杜氏は
- 南部杜氏
- 越後杜氏
- 丹波杜氏
を指します。
次は各杜氏それぞれの歴史とともに特徴を紹介します。
南部杜氏の歴史と特徴
『南部杜氏』は、岩手県石鳥谷町で生まれた杜氏のグループです。日本で最大規模を誇ります。
年に何度も講習会を開き、常に切磋琢磨している杜氏で、最近は若い杜氏や女性杜氏も増えてきています。
南部杜氏が生まれた背景には、江戸時代に藩を挙げて行った日本酒醸造のバックアップがあります。
それまでも南部藩(現在の岩手県中部から青森県東部)で日本酒は作られていましたが、どれも自家醸造の域を出ず、品質も家ごとにバラバラでした。
しかし、1600年に大阪の商人が開発した大量仕込み樽の製法がもたらされたことで、南部藩の日本酒造りが一変します。
盛岡城下で、藩が主導して日本酒の醸造を始めたのです。
当時南部藩で日本酒醸造に関わる杜氏は2種類いました。
一つは京都や大阪など上方で最先端の醸造技術を学び、南部藩に戻って造り酒屋を営んでいた専従杜氏。
もう一つは、商人から委託を受けて、農業の副業として日本酒を造っていた「農民杜氏」です。
南部藩は専従杜氏に農民杜氏の家を回らせ、醸造技術の指導を行いました。
結果として南部藩の日本酒の質は飛躍的に向上し、確かな技術を持った杜氏たちが藩外に出稼ぎに行くなどしたことで、全国に南部杜氏の技術を受け継ぐ杜氏が増えていきました。
越後杜氏の歴史と特徴
『越後杜氏』は、新潟県で生まれた杜氏のグループです。
現在越後杜氏を名乗る人は約260名おり、全国各地で日本酒の醸造に携わっています。
雪深い新潟県では、冬の間農作業ができなかったため、季節労働者として出稼ぎに行く人がたくさんいました。
特に人手が必要だった造り酒屋に出稼ぎに行く人は多く、そこで働きが認められて、造り酒屋の暖簾を分けてもらった人や、造り酒屋と養子縁組をする人もいました。
こういった人たちが、越後杜氏の始まりだったとされています。
越後杜氏は、新潟県内の地域ごとに
- 三島杜氏
- 刈羽杜氏
- 頚城杜氏
の3つのグループに分けられます。
丹波杜氏の歴史と特徴
『丹波杜氏』は、現在の兵庫県篠山市で生まれた杜氏のグループです。最盛期には5,000人もの登録者がいました。
丹波杜氏は、1705年に庄部右衛門が大和屋本店の杜氏になったことが始まりとされています。
江戸時代の元禄年間には、大阪の池田や伊丹に出稼ぎに行く杜氏が多くいました。
江戸時代中期以降は池田や伊丹だけでなく、灘五郷や今津で酒造りに携わる杜氏も増え、丹波杜氏の働きで現在の灘の酒ができあがりました。
その働きは、灘の民謡「デカンショ節」にも謳われています。
丹波杜氏は、全国各地に醸造技術の指導に赴き、それぞれの地域で地酒の原型を作ることにも貢献しました。
現在、篠山市には「丹波杜氏記念館」があり、丹波杜氏の歴史を学ぶことができます。
さいごに
日本酒造りの最高責任者である「杜氏」と一口に言っても、様々なタイプの杜氏がいます。
今回紹介した日本三大杜氏は、今も多くの杜氏が所属しているグループです。
日本酒を楽しむ際は、その日本酒を造った杜氏がどのグループに属するかも考えてみるとおもしろいのではないでしょうか。